7月8日(水)23時54分
明日の朝、旅立つというのに、
夜になっても愚息の支度がなかなか整わず、
と言って、
私にもやることが山積していて、
手伝う余裕もなく、
いつもながらの雑ぱくな夜が更けていった。
愚息が今年の私の誕生日に、
アルバイトで得たお金で買ってくれたシャンペンで、
「乾杯でもして」と思っていたのも、
我ら親子には雰囲気的に合わないような気がして、
そのまま冷蔵庫で眠ったままになっている。
周りの人たちは「淋しくなりますね」と言うが、
私は20年ぶりの独り暮らしを「謳歌」しようと思って、
照明器具を換えたり、テレビを買い替えたり、
それはそれなりにワクワクもしているのである。
ただ、
つくづく自分の性格がイヤにもなるのだが、
個人的なこととなると、
どうも情緒的な場面が苦手で、
どこかで「新派大悲劇」的な感じ(古すぎる?)を避けたくて、
ひたすら前へ前へと、
進んでいるような気がしないでもないのである。
(まぁ、現実回避ってやつですね)
「何で僕が出発する2日前になって、
突然テレビを替えたり、照明器具を替えたり、
部屋の模様替えをしようとしているのか、
僕には理解出来ないよ」
と、息子にも言われたのだが、
「せっかく新しい生活になるのだから」
という気持ちのほうが強く、
一刻も早くシーンを整えたいという心理が働くのである。
考えてみれば、
昔から私は「今・現在」に浸り切らない、
いや、浸り切れない性格だったように思う。
いつも「next」ばかりを思い、
追いかけて来た感じだ。
待ちに待った日が来ても、その日を楽しめず、
「来た」という事実だけで満足してしまうのである。
それどころか「来た」瞬間で全てが終わり、
また「その次」に心が向いてしまうのである。
「せっかち」と言ってしまえばそれだけの話なのだが、
それだけではないような気もする。
どうも私は「肝心の時」が苦手なのではないかと思う。
そこに向かっている時は、疾風怒濤・波乱万丈も何のその、
全身全霊で山越え、谷越えが出来る(と思っている)のだが、
ひとたび嵐が過ぎ去って、凪いだ静けさが訪れると、
平和や幸福に浸ることもせず、
また次の越えるべき目標を探すのである。
恋が実りそうになると、
「こんなところで留まっていていいのか!
こんな幸福に酔いしれていていいのか!」
と、その場から逃げ出し、
別れの場面でも、
愁嘆場や修羅場を回避したくて、
「いいの、いいの、私は大丈夫。これで死ぬわけじゃないんだから」
と自分の気持ちを誤魔化してきた。
もっと「その時」を味わえばよかった。
もっと「そこに」留まっていればよかった。
.........愚息は、今、母の部屋に行っている。
「私は110歳まで生きるから、1年ぐらい会わなくたって平気だよ」
と言いながら、
昨日あたりから急に口数が少なくなっている祖母を気遣い、
一人で部屋を訪れているのだ。
さてと、私もこうしてはいられない。
明日の朝は、
しばらく食べられなくなる「亀の井別荘」の五穀米でも炊いて、
純日本風の朝ご飯を作るつもりなので、
これから下ごしらえだけでも(大袈裟!)しておこうと思う。
その前に原稿2本も書かなければならない。
明日はどんな一日になるのか。
またしても「次の日」が楽しみな私である。














































いつもブログを拝見しております。1,2度コメントしたこともあったのですが、ちょっと忙しくなると読むので精一杯で。残間さんは、これを毎日書かれているのだから、頭がさがります。
息子さんがアメリカへ旅立つというのは留学でしょうかね?今の時代ですもの、その気になれば行ったり来たりもできなくはないし、電話もメールもあるのに、とも思いますが、今まで、ひとつ屋根の下に暮らしていたのなら毎日会えない、気配がない寂しさってありますよね。私も、今年息子が進学のために家をでたので、その寂しさ(息子が勉学に励むのはうれしいのだけど)とてもよくわかります。子どもはいつまでも懐に抱いてはいられないのですけどね。